2013年03月01日

ラジオの時代(06) らくちょうのお時(昭和22年) その1

 昭和22年4月22日、東京放送局(NHK)のラジオ番組「街頭録音」に登場したのが“らくちょうのお時”。

 有楽町界隈で夜をひさぐ女をたばねている頭(かしら)だが、アナウンサー藤倉修一の隠し録りインタビューにあっけからんと応えたものの、まさか「ガード下の娘たち」として放送されるとは思いもよらなかった。

 そのときの声がNHKのアーカイブで聴くことができないのは、隠し録りインタビューという負い目があるからなのだろう。次のようなものだったらしい。

『ここの生活を三日続けたら、決して救われないのよ。病気にはなる、サツ(警察)にはあげられる。だんだんとハクがついてくると、自分は一生カタギにはなれないとヤケになるのね』

「ガード下の女」の中で、彼女が口ずさんだことで有名になったが「星の流れに」。作詞家の清水みのるは、タイトルを「こんな女に誰がした」にしたのだが、GHQから対米感情を煽るという理由で変更させられた。

 


YouTube: 星の流れに 菊池章子


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2013年03月02日

ラジオの時代(07) らくちょうのお時(昭和22年) その2

 カストリ雑誌『ネオ・リベラル』(昭和22年12月号)に当時の有楽町事情が載っている。それによると『有楽町のガードをくぐって直ぐ左にある露路を入って行くと(東京温泉)とい風呂がある。日比谷劇場の丁度背中合わせ位の場所に当っているが、ここが、(ラクチョウのスケ)たちの総本部である』。

 しかし『(お時姉さんは)今では島を売って市川へ行ってしまい英子姉ちゃんが三百人の夜の女のたばねをしている・・・昼すぎから夕方にかけて、入れ代り立ち代りここで湯につかって出て行くのが、彼女らの日課になっていて、英子姉ちゃんの身体なんか四五入がかりで洗っている』ということになる。


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2013年03月03日

ラジオの時代(08) らくちょうのお時(昭和22年) その3

『朝日新聞』(昭和23年2月9日)が「ラク町のおとき 街録から更生物語」として掲載した。

『NHKの街頭録音では「ガード下の女」の声をきかせ つづいて社会探訪「ガード下の女後目談」では更生した女事務員となつてふたたび放送した“ラクチョウのおとき“改め西田時子さん(二十)が八日、素ッ堅気に帰るふンぎりをつけてくれた人、藤倉アナウンナーの宅を訪れた、「イジにもラクチョウには帰らない」とこれは「ガード下の女後日談」の後目談』・・・隠し録りしたアナウンサーを訪ねていったのは、仕返しかと思ってしまった。

 続いて『・・・昨年四月廿二日夜おでんやで彼女自身が知らずにしやべった「ガード下の女」の声をきいた、その声はカガミのように彼女たちの“悪の生活”をうつしていた、ガクゼンとした“おとき”は、その夜を最後にラクチョウからすがたを消した』・・・カストリ雑誌にあるとおりだ。

『ある人の紹介で昨年七月市川市の桜ハナオ会社の女事務員に就職した、月給千五百円、歯をくいしばつて彼女はがんばつた、その更生の声が去月十四目夜“社会探訪「ガード下の女後圓談」”となつて再び全国に放送された「せつかくカタギになつたのに世間はまだ私をつめたい眼でしかみてくれない・・・」とさけぶ時子さんの声は聴取者に大きな反響を呼んだ』。・・・う〜ん、とりあえずよかった。


YouTube: 発掘映像 Coronet Instructional Films 焼け残った戦後の日本の風景

 


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2013年03月04日

昭和の生活(32) 救護板(昭和31年)

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 映画『私をスキーに連れてって』が公開されたのは昭和62年11月21日。ホイチョイ+知世ちゃん+ユーミンで大ヒットし、以降、大量の女性でゲレンデがにぎわうようになった。

 ウェアの流行はワンピースタイプ。夏と違って体型が表面化しないから万々歳。ゲレンデのいたるところで白、あるいはピンクのellesse(エレッセ)嬢が知世ちゃんになりきっていた。といっても、ゴーグルをとるまでの話だけど。

 当然ながら行き帰りは彼のマイカー。足首をネンザしても、応急処置をしたのち、そのまま帰ってこられるわけだが、それより以前、昭和30年代はどうだったかというと、『週刊朝日』(昭和30年1月29日)の「救護板」というコラムに詳しい。

 それによると『銀座や心斎橋の喫茶店から、そのままかけつけたというかっこうスキーヤーで、越後や信州のスキー場は、このところ大変なにぎわい』なんだけれど『姿はイキでも、技術のほうは未熟というアベックさんに、スキー場の骨折、ネンザが多い』からまいっちゃう。

 で、登場したのが「救護板」。考えたのは新潟鉄道局旅客課。『せんたく板のギザギザをとってマナイタ型に裏側に足ニ本をつけたもの』で『幅五十センチ、長さ七十センチ』。どう使うかというと『板を向い合った座席と座席の間に渡し、痛む足をのせて帰ってください』というもの。『三等車のせまい座席で、負傷した足を曲げていては痛くてたまらない』だろうから。

『とりあえず越後湯沢、石打などの九駅に六十枚を備えた』のだが、『たいした負傷でもないのに使用を申し出る不届者』が続出したことから、『負傷者の住所、氏名、着駅をききケガの程度を見とどけた上で貸す』ことになったそうだ。笑っちゃいけないのだけれど、やっぱり笑っちゃう。

参考データ:柳屋ポマード/柳屋/『朝日新聞』夕刊広告/昭和31年2月12日

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2013年03月05日

昭和の生活(33) ナンバー4万台(昭和26年)

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 昭和26年当時、都内を走る官公庁の自動車に付けられた自動車ナンバーは「40001」から「49999」まで。都庁は「45000」から、消防庁は「46000」から、警視庁は「47000」からというように住み分けていたらしい。

 でも『週刊朝日』(26年10月28日号)によると、『最近またまた、この4万台のナンバーが、各所で問題視されている』という。なにが問題になったかというと、『取締り当局が「外国自動車譲受規則違反」の見地から、日本人には乗れないはずの、ナンバー「3万台」の在留外人専用車に、どしどしストップをくれ、日本人乗用とわかれば、出頭・・・始末書・・・最高は高級軍没収の「断」を下したことが、キッカケ』。

 つまり、ナンバー「4××××」を付けたお役人が、外人専用ナンバー「3××××」を付けたクルマに乗った日本人に嫌がらせをしている。それなのに『「四七×××」のナンバーをつけた警視庁の救急車が、電柱にぶつかって2名の重軽傷者をだしたのはまだしも、料亭の門前に列をなす官庁車を指差して、「講和後の新生活運動はどこにある」「取締りのムジュンはここにある」と、ガイタンし憤慨』。

 というわけで『築地の料亭で窓から小石を投げ込まれた役人もあり、最近では4万台を他の番号に替える「替えナンバー制」が流行し、1台の官庁車が2つナンバーを持つのもあるようになった』そうだ。

 庶民のウップン晴らしだとしても、今なら威力業務妨害で即タイホ。それにしても、お役人の小ずるさは、今も昔も変わりませんな。

参考データ:平凡/平凡社/『朝日新聞』朝刊広告(昭和26年6月21日)

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