2013年04月01日

昭和の生活(51) 上野池之端ホール市松 (昭和32年)

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 戦前も戦後も、東京のダンスホールは大盛況。まるで安来節専門のような名前の「ホール市松」も、当時人気のバンドが生出演し、ロマンチックな毎日だったようだ。

 当時を詳しく知る人によると、きれいに着飾った女性が壁際に並んでいて、それを男性が素早くチェック。好みの女性が見つかると、さっと寄って「いかがですか」とかなんとか声をかけ、「はい」となれば手に手を取り合ってダンス開始。「今、休んでいるところ」とかなんとか云われちゃった場合は、お断りだからアタック先を変更するか、時間をおいてから再アタックとなる。結構、サバサバしていたらしい。

 たいていの場合、すぐに「はい」とならないのは、「尻軽オンナじゃないわよ」という意思表示であって、ホントはうれしいのだが、とりあえず態度はツンツン。でも、あんまり断り続けた挙げ句、誰からも声がかからなくなってしまうとアウト。ホールが閉まるまで、ずっと壁際が居場所になってしまう。それを「壁の花」と呼んだらしい。人生のキビというかアヤというか、なんとも奥ゆかしい。

 中には専属の女性ダンサーもいて、もっぱら鼻の下の長い男性にホールのチケットを売りさばく。売り上げに応じてバックがあるから、こちらはツンツンしてはいられない。

 ダンスが踊れることに加え、それなりの衣装を持っていることなど、かなり敷居が高いが、ダンスするには相手を誘うことから始めねばならないから、ナンパの舞台装置としては良く出来ていると思う。当時は、大学生もたくさんいたらしい。

「ホール市松」が池之端のどこにあったのか、まったく不明ではあるが、タイムスリップできたら、絶対に覗いてみたいところだ。ただし、冬だけ。広告には「暖房完備」とあるけれど「冷房完備」がないもの。

参考データ:「最高のバンド演奏のダンスホール」/上野池之端ホール市松/『MusicLife』昭和32年5月号

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2013年04月02日

昭和の生活(52) ドライブ・クラブ(昭和28年)

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 戦争が終わって8年目。経済白書に「もはや戦後ではない」と記載されるまで、あと3年待たないといけないが、それでも生活の基礎となる衣食住は戦前のレベルを凌駕するほどになった。

 そんなころ、『東京は今やものすごい自動車のラッシュで、駐車場が足りない有様』という書き出しで始まるコラム<ドライブ・クラブ>が『週刊朝日』(昭和28年5月31日号)に掲載された。

 ついこの間まで焼け野原だったのに、自動車ラッシュとは驚いてしまうが、『高級車を利用出来るのは、アチラさんか、お役人、そうでなければ社用族』であって、一般大衆は『酔つばらって半分正気を失っても、眼ざとく七〇円ナリの小型をつかまえるイジラシさ』なんだと。

 そこで考え出された新商売が『ドライブ・クラブ』。『たまには三等社員も、ビュイクで京浜国道を飛ぱしたかろ』というわけで『会員に自動車を賃貸しする仕組』が誕生したという。

 ところが順風満帆とはいかなかった。『自動車運転の免状がいる上に、技能審査をやる』から敷居が高い。さらに『入会金の一万円は何とか無理も出来ようが、問題は賃貸料金』で、『三〇分四五〇円、一時間九〇〇円』。だから『箱根行きなんてシャレたら大変』。しかも『運悪く木にでもぶっつけて車をヘコましたりすれぼ、弁償の仕儀とあいなる』。

 というわけで『今のところ個人の申込はないが法人の方は、まあ悪くない成績。中小企業が申込の大部分で、会費は六万円。商用に使えば割安でもあり、いかにも自社の自動車らしい顔も出来る』。・・・結局、社用族ね。

 新聞記事の「”ムーブ・シート”登場」は、6年がかりで廃品から自動車をつくってしまった26歳の青年の話。小ブタ(仔豚)サイズとはいえ、重量112.5kgの時速50kmは立派だ、しかもアベックOKだから云うことなし。

参考データ:「”ムーブ・シート”登場」/『朝日新聞』(昭和28年7月19日)朝刊

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2013年04月03日

昭和の生活(53) 花形スター 1000名 住所録(昭和25年)

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 終戦の年に創立した凡人社は、11月に雑誌『平凡』を創刊。凡人社とは、かつての平凡、現在のマガジンハウスだ。

 ちょうど創刊5年目にあたる昭和25年11月、新聞朝刊に新年号の広告が載ったのだが、あらためてみて見ると、その内容があまりにも想定外なので笑ってしまう。

 たとえばメイン企画。「川口松太郎新連載! 誘惑の火花」に始まり、連載小説4本、読切小説5本。まるで文芸誌かと思うようなラインアップだから驚いてしまう。

「アメリカブギの旅」の出席者は服部良一・笠置シズ子など。「東京ブギウギ」が一世を風靡したのは3年前。それに気を良くした服部と笠置は、本家アメリカにブギの偵察に行ったところ、すでにブギは廃れていてガッカリ・・・という話を聞いたことがあるが、ここではどんなことが語られたのだろうか。

「★スタアのハンドバック拝見」は面白そう。バックのメーカーではなく「なかみは何か???」だって。原節子・津島恵子・月丘夢路・西條鮎子のハンドバックの中身が晒された模様。

 もっとも興味をそそるのが「★本誌の特撮 原節子さん お宅訪問」。訪れるのは三船敏郎。「お宅訪問」というのはかなり人気があったらしく、その後も延々と続く企画となった。スターがスターのお宅を訪問するところがウケたのかも。

 想定外中の想定外は、広告左下の「花形スター 1000名 住所録」。「映画・歌謡曲・歌劇・歌舞伎。野球・ラヂオ 全部出てゐる」とあるから、当時の有名人すべて網羅といった感じなのだろう。現在のように詳細な区分地図はなく、GoogleMapもない時代だから許されたのかもしれないが、大胆不敵の恐れ知らず。個人情報の扱いにうるさい現代で考えられない企画だ。

『平凡』の発行部数が140万部を突破するのは、これから5年後の昭和30年。残念ながら、同62年に休刊してしまった。

参考データ:「平凡 新年号」/平凡社『朝日新聞』(昭和25年11月22日)朝刊

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2013年04月04日

昭和の生活(54) 映画の三本立て(昭和30年)

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『サンデー毎日』(昭和30年2月20日号)のコラム<映画の三本立て>には笑ってしまった。『一本が二本、二本が三本。今や都会一流地以外は、三本が普通になってしまった。ガマの油ではない、映画の話』なんだって。

 でも三本立ては序の口、『六本立てという、物すごいところまであらわれた』らしい。そんなところに入ったら『あしたにさわやかな朝日を溶びて映画館に入ったら、出る時は夕日が沈んでいた』ということになりゃせんか、と危惧。

 なぜ、三本立てが当たり前になったか。『映画館同士が「一人でも多くのお客を」とばかりに、平均三本までせり上げた次第』だという。『お客の全部が全部、三本とも見る訳じゃない』から『場すえの映画館なんかへ入ると、「七人の侍」が「四人の侍」になったりする』。

 それを「カンヌキ」と云うらしい。要するに『「巻抜き」。一番単純なのは、一巻、三巻、五巻・・・と、一巻置きに飛ばす手。もっとたちの悪いやつは、映す前に、あらかじめ相当巻き込んで置いて、全部終らないうちに次の巻に移る。話の筋の通る方が不思議みたいなもの』だと。

 ついに『興行主も、製作者も、このままでは共倒れとばかり』になるから『禁止を考えた』。で、『一月十八日に厚相から出たのが「衛生上の見地から、興行時間を二時間半に」』という三本立て禁止案。その政策が「カンヌキ」にならねばいいが、と結んでいる。

 新聞広告は『朝日新聞』(昭和29年8月19日)朝刊に掲載されたもの。目がテンになってしまうのは「凄いぞ松竹の豪華番組 若旦那と踊り子」だ。おエロ気たっぷりの踊り子ではなく、下方の上映館「浅草松竹」〜「浜松松竹」までの13館に注目。なんと8本立てなのだ。どのような映画がパックになっていたのだろう。・・・とても気になる。

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2013年04月05日

昭和の生活(55) 八頭身美人 伊東絹子(昭和28年)

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 昭和28年、木村ヨウ子は「ミス日本」の地方予選「ミス東京コンテスト」に出場。見事、ミス東京の栄冠を手にした。本名を伊東絹子と云う。

 なぜ変名で応募したか・・・すでに応募期限を過ぎていたことと、顔が小さいことにコンプレックスを感じていたかららしい。世間が八頭身と騒ぐ前だから「ざけんな」と思うのは酷。

 そんな彼女を強烈にプッシュしたのが、同じ「毎日ファッション・ガール(毎日新聞専属モデル)」の第一期生でもある相島政子だ。ちなみに第一期生には岩間敬子、ヘレン・ヒギンス、香山佳子、井村はるみなどが所属していて、月給1万5000円也。

 なんと、ミス東京で競い合ったのは伊東、岩間、ヘレン。洋風な岩間より京風の伊東のほうがいい、という川口松太郎審査委員長の意見でミス東京は伊東に決定したらしい。ヘレンは既婚であったことがバレ、問題外。

 そして帝劇で行なわれたコンテストで伊東は「ミス日本」となり、世界規模の美人コンテスト「ミス・ユニバース」に出場することとなる。結果は、新聞にあるように「伊東嬢三位」。帰国すると、前述のように八頭身として世間から大注目を浴びた。

 当然ながら、モデル業界で引っ張りだことなった伊東だが、同時に映画界からも猛烈なオファー攻勢。さすがに映画出演の誘惑を無視することが出来ず、東宝に入社。『私のすべてを』(監督/市川昆)の主演女優となったのだが、世間は甘くない。美貌の八頭身だけではお粗末な演技を隠し切れず、観客はがっかり。

 結局、伊東はモデル業に逆戻り。モデルだろうが素人だろうが、美人あるいは可愛ければ主演女優になれる「世間に見る目がない」現代に生まれていれば、伊東は大女優になれたのにね。残念。

参考データ:「伊東嬢三位 1953年度 ミス・ユニバース」/『朝日新聞』(昭和28年7月19日)朝刊

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