2014年12月12日

昭和はじめて物語(01) ギャングの話 昭和7年


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昭和27年発行の『ものしり事典』(風俗篇上、下/河出書房/定価各280円)は、「讀者諸彦の身邊に廣く取材して、教養と趣味と實益を滿載し絶賛を浴びている」本。教養、趣味、実益・・・なんとも欲張りな本だが、当時の広告にそうある。著者は日置昌一氏。大正〜昭和時代の日本文化史研究家である。

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 アメリカの大規模な惡事をはたらく團體の名稱であるが、日本では昭和七年十月六日に共産黨員の今泉善一、中村經一、西代義治ら三名が費金調達のため、川崎第百銀行の大森支店をピストルで白畫襲撃を行い、三萬圓を強奪して逃走した赤色ギャング事件が發生し、その當時大きなセンセーションをまき起したことがある。

 当時の新聞には「アメリカ式悪漢團そのままの手口」とある。銀行から強奪された現金は、正確には3万1700余円。当時、省線の初乗り運賃は3銭。タクシーなら30銭(1.6キロ)。大卒で大手企業に就職すれば給料は50円だったから、3万円は1億2000万円ほどだろう。

 事件発生から6日目の9日午前9時半、犯人の一人を日暮里道灌山下で捕縛。自白により、残る二人は芝公園内の隠れ家に居ることが分かり、「警視廳では十日拂暁決死隊を組織」して隠れ家を急襲。結果、見事に捕縛。「近來の大事件の解決を見るに至った」と新聞がホメている。

 これからギャングという、言葉がひろく、いつぱんにも盛んに使われるようになつた。

 犯人は22〜24歳の若者3人。全員明治生まれだから、すでにあの世に行っていると思われる。

引用:『ものしり事典』(風俗篇上、下/日置昌一著/河出書房/昭和27年12月10日再販発行)
画像:朝日新聞(昭和7年10月11日)夕刊

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2014年12月15日

昭和はじめて物語(02) サンマータイムの始 昭和23年

昭和27年発行の『ものしり事典』(風俗篇上、下/河出書房/定価各280円)は、「讀者諸彦の身邊に廣く取材して、教養と趣味と實益を滿載し絶賛を浴びている」本。教養、趣味、実益・・・なんとも欲張りな本だが、当時の広告にそうある。著者は日置昌一氏。大正〜昭和時代の日本文化史研究家である。
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 夏のあいだ時間を一時間すすめて能率を上げることは、アメリカでは西暦一九一七年から行われているが、わが國では昭和三年のころ、田中義一内閣のとき、當時の書記官長であつた鳩山一郎が、はじめてサンマータイムを提言したことがあつたが笑殺されて引きこめてしまつた。

 夏の午後7時はまだ明るいのだが、冬になると真っ暗となる。「それじゃあ能率が悪いべ」ということで鳩山由紀夫のパパが提言したのがサマー・タイム。

 サンマー・タイムと言ったから笑殺されたのではなく、狭い日本では無用の長物だと思われたらしい。

 それが終戰後の昭和二十三年五月二日になつてその日から同年九月十一日までのあいだ、實施されるようになつた、しかし、これにも賛否の論がしきりと行われて、ついにそのご二十七年の夏からは、また廢止されることになつてしまつた。

 サンマー・タイム実施中である昭和23年9月2日の朝日新聞朝刊に掲載された「サンマー・タイム成績表」によると、結果は良好だったみたい。

 なにしろ「電力の節約が第一の利点となっており、これはサンマー・タイム実施後の五月十日からの一週間と実施前の四月のその期間との比較では石炭換算にして二万トンもの節約になり、この方法で全期間の節約料を算定すると膨大なものになる」という。

 でも主婦の場合、「朝早くから起こされる子供たちは朝からキゲンが悪い」「ガスは午前五時からでるかわりに午後は七時に終わりとなる」。だから「総体的に主婦を女中化する」と怒る。

 一方、「商売上がったり」と嘆くのは飲食店。「あかるいうちから遊びでもあるまい」というわけで「銀座付近の一流どころでも客足はどこでも例年の夏より二割減が普通でしよう」。

 運輸省の天文と暦の専門家は、「サンマー・タイムの功罪は生活環境に強く左右されるから一概にはいえない」。たとえば「九州に住む人は夏時実施以前でも、実際は太陽がまだ真南に来ないのに、時計面は正午を指すので昼食を食べさせられた」が、さらに一時間も繰り上がるのはとんでもない。逆に「関東や北海道に住む人は・・・相殺される」。だから「日本東部の人は、夏時に対してとや角いう資格はない」と手厳しい。

 最後に「HNKで放送終了を一時間繰り下げたような愚は二度と繰り返さぬことだ」とあるのは、せっかくサマー・タイムを実施したのに、放送終了時間を実施前の時間に合わせてしまったのだろう。「愚」だな。

引用:『ものしり事典』(風俗篇上、下/日置昌一著/河出書房/昭和27年12月10日再販発行)
画像:朝日新聞/昭和23年9月2日朝刊

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2014年12月17日

昭和はじめて物語(03) 螢光燈の話 昭和22年

昭和27年発行の『ものしり事典』(風俗篇上、下/河出書房/定価各280円)は、「讀者諸彦の身邊に廣く取材して、教養と趣味と實益を滿載し絶賛を浴びている」本。教養、趣味、実益・・・なんとも欲張りな本だが、当時の広告にそうある。著者は日置昌一氏。大正〜昭和時代の日本文化史研究家である。

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 これは西暦一九三三年に發明されたものであるが、日本では昭和二十二年ごろから一般に用いられはじめた。

 発明したのは米国GE社のインマン博士。その技術を導入したのが東京芝浦電気。昭和15年(1940年)に10Wと20Wのランプを試作。もちろん現在のモノとは比較にならないほど性能は悪く、寿命は1000時間。それでも白熱電球のように熱くならず、効率は2.5倍(30ルーメン)ほどだった。

 これは「螢の光り窓の雪」のあの螢のように冷たい光を出す灯(ともしび)、つまり螢光燈と酒落れたのが名のはじまりである。

 ちなみに東京芝浦電気の商品名は「マツダ螢光ランプ」。最先端の技術だったので、「螢光」は許せても「燈」は古臭くて使いたくなかったのだろう。

 この螢光燈にもいろいろあつて、魚を集める集魚燈、夏の夜の水田にキラメク誘蛾燈などがあり、その色彩も水銀とアルゴン入りのクダに塗る藥によつてちがい、タングスン酸マグネシユウム、ケイ酸バリウム、ホウ酸カドミウム、青白い色、ダイダイ色、うす赤い色、このまぜ加減で違つた色の味が出る。

 昭和15年は皇紀2600年。その記念事業である法隆寺金堂壁画模写事業が行なわれた際、開発中の「マツダ螢光ランプ」が使われた。直管形蛍光ランプ20W(昼光色)×136灯。「熱がなく明るい照明」として白羽の矢が立ったのだ。

 その後は順調。同17年(1942年)の昼光色蛍光ランプの生産量は月産約2000本にもなった。

 書齋なら青つぽい色が落ついてよく淺酌低唱して美人を相語るならオレンジ色がそれにふさわしく、メスやゾンデの光る手術室なら強い白色光などが喜ばれるようである。

 浅酌低唱どころか、昭和19年(1944年)には潜水艦の照明(20W昼光色)、航空母艦の着艦灯(12W緑色)などに採用され、全生産品が海軍艦政本部に納入されたそうだ。

 一般家庭への普及が進んだのは同31年(1956年)。GE社が開発した環形ランプが国内で生産されるようになったからだ。参考画像の「東芝のマツダ蛍光ランプ器具」は、同年4月12日の朝刊新聞に掲載された広告。

引用:『ものしり事典』(風俗篇上、下/日置昌一著/河出書房/昭和27年12月10日再販発行)
画像:朝日新聞/昭和31年4月12日朝刊広告

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2014年12月19日

昭和はじめて物語(04) 拳闘の始 昭和27年

昭和27年発行の『ものしり事典』(風俗篇上、下/河出書房/定価各280円)は、「讀者諸彦の身邊に廣く取材して、教養と趣味と實益を滿載し絶賛を浴びている」本。教養、趣味、実益・・・なんとも欲張りな本だが、当時の広告にそうある。著者は日置昌一氏。大正〜昭和時代の日本文化史研究家である。

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 西紀前九百年のころ、ギリシャで行われたパヂルという爭鬪がこの起源である。一七一九年(享保四年)にイギリス人ジェームス・フィッグが最初の選手權を獲得し、モダーン・パヂリズムの競技法をはじめて具體化したので、拳鬪の父とよばれ、英國が近代的拳鬪の本場といわれるようなつた。

 JBC(財団法人日本ボクシングコミッション)のHPに掲載されている<ボクシングの歴史>によると、初代英国チャンピオンのジェームス・フィッグが活躍したころは「ラウンド制ではなく、相手がダウンしたり、投げ倒されたりした場合に30秒の休みが与えられ再開となる。これに応じられなければ敗北を宣言された」そうだ。

 驚いたことにグローブはなく「素手に近い形」に加え、「ノールール、ノータイムリミット」・さすがに「官憲による取り締まりを受け、1754年には非合法」となってしまった。

 日本にわたつてきたのは明治二十年五月に力士濱田庄吉らがアメリカから歸朝したとき、スパーラ、ラスラの鬪士ウェブスターらを伴つてかえり、これを興行したのがはじまりである。 

 それから久しく中絶していたが、四十二年には嘉納治五郎が最初のクラブである日本拳鬪會をもうけ、大正十一年には、アメリカから拳鬪家になつて歸朝した渡邊勇次郎が日米拳鬪倶樂部を東京目黒の不動坂下につくり、こうして十三年四月二十六日には、わが國で始めての拳鬪選手權大會を東京日比谷公園の音樂堂で開催するほど盛大になつてきたのである。

 嘉納治五郎が登場する前の明治31年(1896年)、ジェームス北條と齋藤虎之助が横浜市石川町にメリケン練習場を開いたものの「入門者は1人もなく、まもなく閉鎖された」。独特の様式美をもつ柔道剣道合気道などとは異なり、野蛮な感じがするものね。

 なお昭和二十七年五月十九日に東京の後樂園で行われたフライ級ボクシング世界選手權をかけた試合に、わが國の白井義男がハワイのダド・マリノを判定で破り、日本人として最初の世界選手權を獲得することに成功した。

 昭和35年(1960年)封切りの赤木圭一郎主演『打倒(ノック・ダウン)』は、当時としては珍しいボクシング映画だが、ボクシングという言葉は一度も登場しない。「拳闘」なのだ。

 白井がマリノに勝った翌日(昭和27年5月20日)の新聞も、見出しに「ボクシング」は登場していない。<世界選手権><フライ級タイトル・マッチ>だけなのだ。いつ頃から「ボクシング」と言う言葉が一般化したのだろうか。

引用:『ものしり事典』(風俗篇上、下/日置昌一著/河出書房/昭和27年12月10日再販発行)
画像:朝日新聞/昭和27年5月20日朝刊

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2014年12月21日

昭和はじめて物語(05) 殺人光線の話 昭和15年

昭和27年発行の『ものしり事典』(風俗篇上、下/河出書房/定価各280円)は、「讀者諸彦の身邊に廣く取材して、教養と趣味と實益を滿載し絶賛を浴びている」本。教養、趣味、実益・・・なんとも欲張りな本だが、当時の広告にそうある。著者は日置昌一氏。大正〜昭和時代の日本文化史研究家である。

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 昭和十五年から陸軍第九研究所で研究をはじめ、十六年十月には一時レーダーの研究に變更したが、ついで十八年にはふたゝび殺入光線の研究を行うようになつた。

 光線とあるが電磁波のことだと思われる。要するに電波。だからレーダー研究とは無縁ではない。敵兵に向けて電磁波を放射して致命的なダメージを与えるわけだから、革命的な兵器だ。

 そして十九年ついに實驗ではほゞ成功し、百十六名の專門研究員がこれに從事したが、しかし三十メートルの距離で、強力な眞空管をもちい、八十メートルの波長で十分もかゝつて、ようやく鼠一匹を殺す程度にすぎず、新らしい兵噐にはならなかつたものである。

 文中、「80メートルの波長」とあるが、80マイクロメートルの間違いだと思う。短波放送などに使われる80メートルに殺人能力はない。80マイクロメートルだとすると、大型の開放型電子レンジのようなものか。

 30メートル先のネズミ1匹殺すのに10分だと、人間なら10時間はかかる。だからこのまま兵器として使うなら、敵の兵士を自陣から30メートルのところまでおびき寄せ、さらにその場で10時間、ジッとしていてもらわねばならぬ。

 画像は「国立公文書館 アジア歴史資料センター」所蔵の軍事機密文書『戰法上ヨリ見タル屈敵兵器の考按 昭和20年6月17日 大陸一課』。一番目に記載されているのが「殺人光線ニ依ル大量殺戮」だ。

引用:『ものしり事典』(風俗篇上、下/日置昌一著/河出書房/昭和27年12月10日再販発行)
画像:「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C14061055600、本土決戦関係兵備綴 昭20.4.1〜200.60.20(防衛省防衛研究所)」

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