2015年01月01日

昭和はじめて物語(10)チンドン屋の始 明治18年、昭和7年

昭和27年発行の『ものしり事典』(風俗篇上、下/河出書房/定価各280円)は、「讀者諸彦の身邊に廣く取材して、教養と趣味と實益を滿載し絶賛を浴びている」本。教養、趣味、実益・・・なんとも欲張りな本だが、当時の広告にそうある。著者は日置昌一氏。大正〜昭和時代の日本文化史研究家である。

----------------------------------------------

010_チンドン屋の始_07-1-18_800.jpg

 明治十八年正月に東京市京橋南傅馬町の廣告業高坂金次郎といふ人が「ひろめや」という商賣をはじめ一日に百人位のルンペンを集めて行列をつくり、先頭と後部に旗をたて、囃をなかに入れ、ドンチャン ドンチャンと、主として化粧品などの宣傅をしたのがはじまりである。

 ルンペンとは浮浪者のこと。今どきならホームレス。それが100人だから、注目されないわけがない。高坂金次郎さん、目のつけどころよし。今となれば、化粧品の宣伝というところが気になるけど。

 のち警視廳のとりしまりが嚴しくなつて一組十人以上の行列が禁じられたので、四十年ごろから新らしい宜傅方法をかんがえ出したが、それは三味線、笛、鉦と太鼓などの音がチンチンドンドンと響くので誰いうとなくチンドン屋と呼ぶようになつた。また創始時代には街の辻にたつて東西々々と拍子木を叩いて口上を述べたところから「東西屋」ともいわれたものである。

「ひろめや」が「チンドン屋」「東西屋」になったきっかけは警視庁の取り締まりだったらしい。

 このようにチンドン屋はその奇抜なる服装と滑稽な身振り手振りも面白く嫖輕(ひょうきん)、洒落(しゃらく)のロ上とをもつて街頭の入氣をさらい、芝居や活動の日變り、商店その他披露賣出しには風情として無くてはならぬ好宣傅機開となつたのである。

 と、ここまでは順風満帆だったのだが、昭和7年1月18日付の朝日新聞に『チンドン屋の強敵登場』という記事が登場。それによると、ドイツから『発声自動車』がやって来るが、従来のモノとは異なり、移動しながら発声可能だから『チンドン屋に大恐慌を来すべき代物』となるに違いない。要注意。

 ちなみに発声自動車、『能力は六十ワットまで』『車内のマイクロフォンを通じての演説演奏』『放送局の放送も中継出来る』。なんせ『ドイツのある地方で十五万人の在ク軍人を前にして大演説を聞かしたこともある』というシロモノ。

 気になるお値段は『一台が四万円位の見込み』。今どきなら「億」を超える金額だ。

引用:『ものしり事典』(風俗篇上、下/日置昌一著/河出書房/昭和27年12月10日再販発行)
画像:朝日新聞/昭和7年1月18日

posted by sankiyou at 00:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 昭和はじめて物語

2015年01月03日

昭和はじめて物語(11) ウォッシュ・ボーイの始 昭和20年

昭和27年発行の『ものしり事典』(風俗篇上、下/河出書房/定価各280円)は、「讀者諸彦の身邊に廣く取材して、教養と趣味と實益を滿載し絶賛を浴びている」本。教養、趣味、実益・・・なんとも欲張りな本だが、当時の広告にそうある。著者は日置昌一氏。大正〜昭和時代の日本文化史研究家である。

----------------------------------------------

011_ウォッシュ・ボーイの始_21_6_9_800.png

 東京なら宮城前の廣場、中央ホテル附近など、外人自動車のたくさん駐車するあたりに立ちん坊して、「ハロー、ウォッシュ・オァ・ポリッシュ」などと直談判をし、それがまとまると早速バケツの水をタワシにつけて自動車を洗う新らしい商賣、昭和二十年八月終戰後に生れたものである。

 中央ホテルは麹町区内幸町一丁目にあったホテル(大正13年開業)。終戦直後、進駐軍が接収。外人自動車は黒色だからホコリが目立ったと思われる。いい商売だ。

 ただの「洗い」なら百五十圓、ワックスで車體をみがきにすると五百圓、月ぎめにすると二千圓、一人で月ぎめ車を十臺、多いのは弐十臺くらいも持つているという思いつきでも珍らしい商賣である。就職難の折、仲々耳よりな職業でもある。

 洗い150円、ワックス磨き500円・・・安いか高いか。政府が決めた公定定価ではなく、ヤミ値段を基準に物価を考えると、順当な値段かも。

<昭和20年10月末ごろのヤミ値段>
 ※カッコ内は公定定価
白米1升70円(53銭)、さつま芋1貫目50円(8銭)、砂糖1貫目1000円(3円70銭)、ビール1本20円(2円85銭)、清酒2級1升350円(8円)。

 画像は昭和21年6月9日の朝日新聞。新橋に出現した新商売「歩く闇市」は「一日の儲けざつと五百円」。朝5時から夜8時まで、雑踏を歩いている人間の衣類や履物など身ぐるみ買い取るなど、「その場で賣つてその場で買ふという資本不要の歩きあきなひ」だ。ウォッシュ・ボーイよりも効率がいい。

引用:『ものしり事典』(風俗篇上、下/日置昌一著/河出書房/昭和27年12月10日再販発行)
画像:朝日新聞/昭和21年6月9日

posted by sankiyou at 00:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 昭和はじめて物語

2015年01月05日

昭和はじめて物語(12) 成人式の始 昭和24年

昭和27年発行の『ものしり事典』(風俗篇上、下/河出書房/定価各280円)は、「讀者諸彦の身邊に廣く取材して、教養と趣味と實益を滿載し絶賛を浴びている」本。教養、趣味、実益・・・なんとも欲張りな本だが、当時の広告にそうある。著者は日置昌一氏。大正〜昭和時代の日本文化史研究家である。

----------------------------------------------

012_成人式の始_24-1-16_cut800.jpg

 一人まえのおとなになつたことを自覺し、みずからいきぬこうとする青年男女の前途をしゆくふくし、かつこれをはげます意昧での儀式のことをいう。むかしの元服式を新らしくしたようなものもある。

 二年以上前に振袖一式を予約し、さらに髪結いと写真スタジオの日取りを確保しておかねばならぬ今どきとくらべ、成人式が誕生した66年前は清々しいったらありゃしない。

 昭和二十三年の春から各地においておこなわれはじめたが、七月二十日に國民の祝日法が公布され、二十四年正月十五日から國民の祝日として、毎歳正月十五日にこれをおこなうようさだめられたのである。

『初の「成人の日」 割り切れぬ祝日氣分』とは、昭和24年1月16日付朝日新聞の三面記事。

 それによると「都電、バス、官公廳を除いて國旗を立てゝいる家庭はほとんどない」し、映画館では「成人、未成人、さては老成人諸君がトグロを巻き」といった状態。しかも後楽園球場で催された「成人の日」國民祭典では「千名足らずの成人が廣いスタンドの一角にあつまつただけ」だったらしい。

「青年男女の前途をしゆくふくし、かつこれをはげます」のだから、もう少し前向きの明るい記事にすればいいのに、トゲだらけなんだな朝日は。

引用:『ものしり事典』(風俗篇上、下/日置昌一著/河出書房/昭和27年12月10日再販発行)
画像:朝日新聞/昭和24年1月16日

posted by sankiyou at 00:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 昭和はじめて物語

2015年01月07日

昭和はじめて物語(13) 公娼廢止の始 昭和21年

昭和27年発行の『ものしり事典』(風俗篇上、下/河出書房/定価各280円)は、「讀者諸彦の身邊に廣く取材して、教養と趣味と實益を滿載し絶賛を浴びている」本。教養、趣味、実益・・・なんとも欲張りな本だが、当時の広告にそうある。著者は日置昌一氏。大正〜昭和時代の日本文化史研究家である。

----------------------------------------------
013_公娼制度の廃止_21-1-25_800.png

 昭和二十一年正月十二日に聯合軍最高司令部から、日本の公娼制度の廢止が命令され、同月二十四日にそれが實施された。明治時代からのいくた女性の先覺者たちの運動も、ようや戰後において實現されたわけである。

 公娼制度とは、娼妓をなりわいとする者に国が許可を与える制度。明治33年に発布された「娼妓取締規則」が元になっている。それを「廃止せよ」と命じたのがマッカーサー連合国軍最高司令官。

 これによつて、今日まで直接間接に公娼制度の存續をみとめ、許可をあたえていたすべての法律規則その他の法令はことごとくその日から無效になつた。

 売春そのものを公認しているわけではないが、それまで野放しだった娼妓の扱いに法的規制を加えたのが公娼制度。「前借」「年期」などの封建的な縛りから女性を保護する面ももっていた。そのため、規制が無効になったとたん、新たな悲劇が生まれることになる。

 が、しかしいかに法規からの公娼は廢止されたといつてもそれは表面だけでその裏面では、これまでの貸座敷そのものが、體裁の艮い慰安所とかわりそこに働いていた娼妓は接待婦とその名をかえたにすぎない。そして相もかわらず賣淫行爲を行つておりこの間題だけは人間の本能につながるのと長い社會の歴史の因果開係からどうにも改變の見込みはなさそうである。

 朝日新聞(昭和21年1月25日付)によると「昨年四月末現在の調査だと全國の業者総数は三千百六十五軒、娼妓は一万四百十七人」。本人の希望などで私娼になる場合は、「玉ノ井、亀戸のように”酩酒屋”として一定の營業地域を指定、集團的に落着くやうに指導」。ついでに「”あがり”に對する業者の取り分も最高百分の五十とし、私娼の生活擁護をはかる」とある。

引用:『ものしり事典』(風俗篇上、下/日置昌一著/河出書房/昭和27年12月10日再販発行)
画像:朝日新聞/昭和21年1月25日

posted by sankiyou at 00:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 昭和はじめて物語

2015年01月09日

昭和はじめて物語(14) 混血兒保育所の始 昭和23年

昭和27年発行の『ものしり事典』(風俗篇上、下/河出書房/定価各280円)は、「讀者諸彦の身邊に廣く取材して、教養と趣味と實益を滿載し絶賛を浴びている」本。教養、趣味、実益・・・なんとも欲張りな本だが、当時の広告にそうある。著者は日置昌一氏。大正〜昭和時代の日本文化史研究家である。

----------------------------------------------

014_浮浪兒_23-4-1_800.jpg

 昭和二十三年二月に、元外務次官澤田廉三の夫人美喜が進駐軍人と日本女性との間に生れた恵まれない運命の混血兒二人を引きとり、神奈川縣大磯町の敷地一萬五千坪といわれる元岩崎別荘に孤兒院エリザベス・サンダース・ホームをひらいたのがはじまりである。

 元外務次官澤田廉三の夫人「美喜」は三菱財閥3代目当主岩崎久弥の長女。つまり岩崎弥太郎の孫娘である。

 大磯駅前に広がる「敷地一萬五千坪」の「元岩崎別荘」は、財産税の代わりに納付された物納物件だったのだが、全財産を換金し、さらに借金、寄付を得て400万円で国から買い戻したもの。

 現在、同地で児童養護施設「エリザベス・サンダースホーム」と「聖ステパノ学園」小学校・中学校が運営されている。

 朝日新聞に『ふえる浮浪兒に親代わりの“委員”』が掲載されたのは昭和24年4月1日。「児童福祉法」が実施された日だ。

 その中に「家を捨てる子たち」という記事があるが、それによると「三月中に東京都では約三百名の浮浪兒をカリこんだが八十%は、レッキとした保護者がありながら歸ろうともしない”家を忘れた子供たち”」だったそうだ。

 ちなみに警視庁で扱った家出人(迷子含む)は、昭和22年は総計5637名。うち18歳未満の少年少女が1960名。同23年になると激増している。

 記事中の写真キャプション『逃亡防止にハダカ戰術』が気になるが、以下が全文だ。

『「逃亡率五割二分の浮浪兒にはこれ以外に打つテはありません」といつて都立中央兒童相談所では子供たちを逃げられないようハダカにしておくという戰術を三月二十六日からとつている、子供たちは、センベイぶとんにくるまつてヤケをおこし、奉仕の學生の童話もうわの空』

引用:『ものしり事典』(風俗篇上、下/日置昌一著/河出書房/昭和27年12月10日再販発行)
画像:朝日新聞/昭和23年4月1日

posted by sankiyou at 00:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 昭和はじめて物語