2015年04月01日

昭和はじめて物語(17) 火事を消す藥の始 昭和17年

昭和27年発行の『ものしり事典』(風俗篇上、下/河出書房/定価各280)は、「讀者諸彦の身邊に廣く取材して、教養と趣味と實益を滿載し絶賛を浴びている」本。教養、趣味、実益・・・なんとも欲張りな本だが、当時の広告にそうある。著者は日置昌一氏。大正〜昭和時代の日本文化史研究家である。

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 昭和十七年七月十六日に東京の日産化學工業會杜でかねて研究していた防焔劑が完成したのがはじまりである。

 日産化学工業株式会社の前身は東京人造肥料會社。明治20年(1887年)4月、日本初の化学肥料製造会社として誕生した会社だ。現在でも難燃剤を製造している。

 これは火事の豫防藥で警防團服やモンペに塗布しておくと絶對に衣服に火が燃えうつる心配はなく、焼夷彈を消すばあいでもこれを塗つた莚(むしろ)でやる方が手輕に消せるというのであつたが、しかし實際には終戰まであまり普及されないでおわつてしまつた。

 普及しなかった理由は不明だが、東京に初空襲があった同年419日の新聞に『初空襲に一億沸る闘魂』『バケツ火叩きの殊勲』『威力なき燒夷彈』などと威勢の良い記事が並んでいるので、おそらく「火事の豫防藥」より「沸る闘魂」のほうが重要だと考えてしまったのかもしれない。

 新聞に掲載された写真の解説は、以下のとおり。

『寫眞 (上)燒夷彈落下もものかは「わが家」を護る隣組夫人班の活躍(下右)上田内務省防空局長(前方)視察(同左)敵機の投下した燒夷彈と敵機盲爆の跡』

引用:『ものしり事典』(風俗篇上、下/日置昌一著/河出書房/昭和271210日再販発行)

画像:朝日新聞/昭和17419

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2015年04月03日

昭和はじめて物語(18)ダイヤモンド買上の始 昭和19年

昭和27年発行の『ものしり事典』(風俗篇上、下/河出書房/定価各280円)は、「讀者諸彦の身邊に廣く取材して、教養と趣味と實益を滿載し絶賛を浴びている」本。教養、趣味、実益・・・なんとも欲張りな本だが、当時の広告にそうある。著者は日置昌一氏。大正〜昭和時代の日本文化史研究家である。

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018_滅敵へ光る集団出撃_朝日19-09-29.jpg

 昭和十九年十一月に、政府は民間からダイヤモンドの買上げを開始し、翌二十年三月までにあつめたダイヤモンドは、十五萬二千カラツト、その買上げた金額は一億八千萬圓となつている。

 このころ神風特別攻撃隊による苦肉の戦術が登場。翌年の1月25日まで通算45回、3500人以上が出撃したが、結果はむなしいものだった。

 当時の物価はビール1円30、たばこ(ゴールデンバット)30銭、銭湯12銭。巡査の初任給45円。1億8000万円は、今どきでは1兆円ほどになる。

 ところが平和條約の發效で、占領軍に接收されていた金、銀、ダイヤモンドが返還されたとき、そのかえされた數量と接收數量とが大いに食いちがつていると、元隱退蔵物資摘發委員會副委員長であつた世耕弘一が横槍を入れてから話題となり、大きな波紋をえがいている。

 その説によると「接收されたダイヤの主要部分は、交易營團が扱つた。そのダイヤは戰時中十八億圓の豫算で買上げたもので、時價に換算して三千六百億圓なければならないのに、返還されたのは、十六萬圓一千カラツトで時價にして六百億圓に過ぎず、殘り三千億圓分のダイヤが行方不明だ」という。

 世耕弘一は世耕弘成(自民党)のオヤジさん。自由党の代議士だった。横槍とは、昭和22年3月の衆議院決算委員会で「日銀の地下倉庫に隠退蔵物資のダイヤモンドがあり、密かに売買されている」という発言。

 このために異常なセンセーションをまき起こしたのであるが、その眞相はあるいはおそらく永逮に疑問のまま殘るであろう。

 結局、真相は究明されなかったが、行方不明となった3000億円分のダイヤは「M資金」と名を変え、いまだに政界財界のどこかで語られている。

 新聞に掲載された『滅敵へ“光る集團”出撃』の記事だが、「光る集團」とは白金のこと。

 なぜ白金が必要だったかというと、当時、芳しくない戦況を好転させる目的でロケット戦闘機の開発を企図していたからだ。ロケットエンジンの燃料はヒトラジンと酸化水素。その酸化水素を大量生産するには、白金を使って電気分解する必要があったのである。

 昭和19年10月頃の新間に、軍需省『白金供出 さあ急いで!』という広告記事が載った。翌11月になると「白金不供出処罰令」が出されたこともあり『白金警報 急げ! けふすぐ最寄取扱所へ』。さらに翌12月には『白金供出も あと七日! 戦局は一片の退蔵も許さず!』と逼迫ぶりが見てとれる。

 肝心のロケット戦闘機は、試作機の段階で終戦をむかえることになる。

引用:『ものしり事典』(風俗篇上、下/日置昌一著/河出書房/昭和27年12月10日再販発行)
画像:朝日新聞/昭和19年9月29日

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2015年04月05日

昭和はじめて物語(19) 街頭募金の話 昭和12年

昭和27年発行の『ものしり事典』(風俗篇上、下/河出書房/定価各280円)は、「讀者諸彦の身邊に廣く取材して、教養と趣味と實益を滿載し絶賛を浴びている」本。教養、趣味、実益・・・なんとも欲張りな本だが、当時の広告にそうある。著者は日置昌一氏。大正〜昭和時代の日本文化史研究家である。

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019_陸軍に積もる赤誠_朝日新聞_昭和14年8月17日.jpg

 昭和十二年八月二、三の兩日に全關西婦人聯合會が主催となり、大阪において千二百名の會員が「軍用機獻納資金募集」の文字を赤字に白拔したたすきをかけて手には「戰爭の勝負は空軍の整備如何にあり、わが空軍は東亜安定の柱石」とかいたボール紙製の小箱をもち、かいがいしく、市内四十五ヵ所にわかれて街頭募金をしたのがはじまりである。

 昭和14年8月17日付の朝日新聞の<陸軍に積もる”赤誠” 獻金四千六百萬圓>に、
集められた募金額と献品物(同年5月12日に起きたノモンハン事変以降)が掲載されている。

 以下のような内容だ。

一.事變勃發から15日までの總獻金額、約四千六百萬圓

二.獻品の主なもの、日本刀千五百口、拳銃五千六百挺、自動車二百輌、毛布六十萬枚、軍馬二百頭、飛行機六機、舟艇三十隻  

三.本年六月までに本社取り次ぎの軍用機獻納資金を始め國防獻金によつて整備された主な兵噐、飛行機二百三十八機、戰車及び裝甲車百七輌、觀測車四十三輌、高射砲二百三門、重機關銃五百八十六挺、探照燈六十六台、聽音機百十九台、無線機百六十四台

引用:『ものしり事典』(風俗篇上、下/日置昌一著/河出書房/昭和27年12月10日再販発行)
画像:朝日新聞/昭和14年8月17日

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2015年04月07日

昭和乙ニュース(01) 花より食糧 帝都の櫻だより 昭和21年

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<昭和乙ニュース>の『乙』は、甲乙の乙。要するにB級だ。今どきの「おつかれさま」の意はない。滑稽あり悲惨あり、はたまたお間抜けあり。

 花見シーズン真っ盛り。中国韓国からの花見客がドッと押し寄せ、どこもかしこも大盛況だが、今から69年前の昭和21年の花見は<花より食糧>だった。

 朝日新聞(同年4月8日付)に掲載された<帝都の櫻だより>は愉快。満開のサクラの下、軍帽にオーバーを着込んだ男どもが、天秤棒に大きなサカナを振り分け、黙々と歩いている様子が紹介されているのだ。

 撮影地が神奈川県真鶴とあるから、おそらく新井城跡公園だと思われる。真鶴の漁港で漁師から仕入れ、帰途につく途中なのだろう。

 5日後の同新聞に<半数以上が配給遅延 都の食糧事情再び悪化>とあり、<都民の食糧半分は闇>と嘆いている。

画像:朝日新聞/昭和21年4月8日

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2015年04月09日

昭和乙ニュース(02)若い燕を殺害 昭和20年

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「ツバメくらいで、なにを大袈裟な」と思うのは40代以前の人。「痴話喧嘩の末の男殺しか」と思うのは50代以降の人。年上の女性に可愛がられる若い男のことを「若い燕」という。

 依頼した女は、ホテル経営者大谷くに37歳。殺された若い燕は小野林蔵28歳。

「酒癖悪く何もせずに小遣いばかりせびる」小野に愛想を尽かした大谷は、知り合いの男3人に「小野を片附けてくれ」と頼んでいた。

 たまたま小野+男3人を引き連れて銀座で飲んでいた大谷は、小野に別れ話を持ちかけるも「小野はこれを肯んせずなぐりつけた」から大変。大谷に同情した男3人は「殺意を固め」る。

 大谷を残し「内幸橋附近のガード下」で小野を殴りつけた男3人だが、そこで止めときゃよかったのに、さらに「直径一寸長さ二尺位の鉄棒で後頭部を殴って」しまった。結局、「惨殺」。「死体を外濠に投じ逃走した」のであった。

 事件から3日後、男3人は逮捕。「横浜の不良」とはいえ、記事を読む限りにおいては悪人には思えないのだ。

画像:朝日新聞/昭和20年10月22日

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