2015年10月01日

昭和乙ニュース(39)背と竿に託す生命線 昭和20年

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 戦争が終わって2か月半。空襲におびえることはなくなったものの、とにかく食べるものがない。戦前からの配給制は有名無実、遅配欠配は日常的になっていた。

 当然ながら都市生活者の窮状はひどく、配給待ちは餓死への近道。生きていくためには、なりふりなど構っていられない。

 そこで「配給が與へてくれない野菜を民みづからの足で獲得」するため、焼け残った着物や家財を抱え、農村行き電車に乗り込むことになる。物々交換だ。写真(右)は「早朝から各駅頭にどつと溢れる買出しの列」。秋葉原駅。

 一方、「都心での漁場」である「竹橋附近、市ヶ谷見附附近、勝鬨橋附近等」も大盛況。ついこの間まで「漁獲を禁ず憲兵司令部」の制札が立っていた「竹橋べりはことに豊漁場」で、「毎日三百を下らない」太公望が押し寄せているという。写真(左)は市ヶ谷見附。今は釣堀になっているが、当時は「にわか漁師」の戦場だった。

 でも、それだけでは足りない。耐えかねた都民が、配給量の確保を政府に訴えた。翌11月1日、「餓死対策國民大會」が日比谷公園大広場で開催されたのだ。

 頭をかかえた政府がGHQ(連合国総司令部)に食糧輸入の承認を求めた結果、翌21年2月に米国から小麦粉が入ってくることになった。米軍の余剰食糧、メリケン粉。以降、世界各国からさまざまな援助が行なわれることになる。

 ところが、この記事から2年後(昭和22年10月)、東京地方裁判所の判事(34歳)がヤミ食糧を拒否し、配給生活を守ったために餓死してしまった。危機的状況解消には、まだまだ時間が必要だったのである。

画像:朝日新聞/昭和20年10月29日

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2015年10月03日

昭和乙ニュース(40)“有害雑誌”店頭に置かぬ 昭和38年

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 本屋さんの組合が「“有害雑誌”を店頭に置かぬ」ことを決めた。組合の名は「日本出版物小売業組合全国連合会」、略して「小売業連合会」。加入書店は「約八千」で「売上高では全国の九〇%ぐらいを占めている」から、影響力は強い。

 直接のきっかけは「今月初め、甲府市の書店が“有害雑誌締出し”に積極的に乗出した」から。なぜ山梨県なのかは不明だが、さかのぼること4年前、昭和34年に山梨読書普及組合(貸本組合)が「まんが実態白書」なるものを公表していて、貸本劇画誌を集中攻撃。理由は「少年の犯罪が描かれている」から。

 当時、貸本屋はブームを迎えていて貸本出版業界は大盛況だったものの、悪書追放の掛け声に押されて業績が悪化、転業廃業が相次いだ。まるで地方都市の組合による言論統制・検閲・禁書なのだ。

 ところが、それを見習って全国規模である小売業連合会が「出版販売倫理綱領」を決定してしまった。要綱の内容は「@良書の普及と不良出版物の販売拒否A言論、出版の自由を尊重し、販売面での制圧、干渉には反対B版元、取次、小売三者平等の立場の尊重C定価販売を守る」など。

 要するに、小売業連合会の狙いは「全国の書店が協力して“有害雑誌”の仕入れを全面的に拒否し、店頭には一切置かないようにしてこそ“締出し”も徹底する」という過激なもの。となると「フダ付きの月刊雑誌、週刊誌三十種ぐらいが“締出し”をくいそう」。

 最後は事務局長の話。「小売店が出しゃばりすぎる、と非難されるかもしれないが、行過ぎるくらいまで徹底してやりたい。“有害雑誌”には、この一年間、機会をみては反省を求めてきたが効果がないので、思い切って全国的な統一行動をとることにした」。

 以下は、昭和38年までの流れ。

●昭和30年
 東京母の会連合会が「三ない運動」提唱。悪書を見ない、読まない、買わせないというわけ。何が悪書かは明確でない。

●昭和31年
 日活映画『太陽の季節』(石原慎太郎原作)にイチャモン。アレで障子を突くのはダメらしい。日活は「太陽族映画」の製作継続を断念。

●昭和32年
『チャタレー夫人の恋人』(伊藤整訳)をめぐって裁判沙汰。「大胆な性描写」はアカンのだ。最高裁で発行者、訳者ともに有罪判決。

●昭和34年
 またもやマルキ・ド・サド『悪徳の栄え』の翻訳が猥褻罪で摘発。昭和44年に最高裁で有罪決定。10年越しだ。

●昭和37年
 大蔵映画『肉体の市場』(小林悟監督)にイチャモン。「公然猥褻の疑いがある」として警察がカット強制。翌年、ピンク映画という名前が誕生したけど。

●昭和38年
  大映の成人映画『温泉芸者』にイチャモン。市川房枝ら婦人議員が大映に抗議。「売春を容認する誘惑映画」なんだと。この年、前述したように、書店側も含めた「不良図書」追放運動が高まる。

 なお「日本出版物小売業組合全国連合会」は「日本書店商業組合連合会」と名を変えて現存する。

画像:朝日新聞/昭和38年10月20日

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2015年10月05日

昭和乙ニュース(41)中毒イカにビールス 昭和30年

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 昭和30年の夏、新潟地方でイカ中毒が発生した。記事は、その原因を追究調査していた新潟大学医学部講師の新発見を伝えるもの。

 それによると、イカ中毒の原因は「異常高温、取扱不注意などにより水揚げしてから食卓までの間に悪くなった」のではなく、「タン白系毒素によるもので、その病原はこの沈デン物中に認められるビールス様の小体だ」。

 要するに、腐敗菌ではなくビールスの仕業だというわけ。ビールスは「水揚げ直後のイカにも検出」されているし、「カツオ、アワビなどにも同様中毒症状が流行的に起きている」から「浅海魚が一種の伝染病にかかっている」というのが結論。

 ところがである。「魚の伝染病」に関する続報はない。おそらくビールスの正体は腸炎ビブリオだったのではないか。そうだとすれば、昭和25年に大阪で発生したシラス中毒、さらに同30年の国立横浜病院きゅうりの浅漬食中毒と同じになる。

 その際に分離された細菌は病原性好塩菌と名付けられ、やがて日本細菌学会で腸炎ビブリオと正式名称がつけられることになる。

 恐るべきことに、今どきでも腸炎ビブリオは大活躍。食中毒は毎年約1000件、患者数約3万6000人にも達しているが、そのうち腸炎ビブリオ食中毒は半数以上を占めているらしい。

 でも怖がる必要はない。腸炎ビブリオは60℃、15分程度で死滅する。要注意なのは、夏季、刺し身や寿司など魚介類の生食なのだ。

画像:朝日新聞夕/昭和30年9月8日

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2015年10月07日

昭和乙ニュース(42)ドレメ式文化式 原型型紙 昭和31年

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 大日本雄辯會(現在の講談社)が『婦人倶楽部』を創刊したのは大正9年。残念ながら昭和63年に休刊してしまったが、かつては「戦前の四大婦人雑誌」のひとつに数えられていた。

 現在でも残っているのは『婦人画報』(明治38年〜)、『婦人公論』(大正5年〜)の2冊だけ。『主婦の友』(大正6年〜平成20年)も休刊してしまった。

 画像は新聞に掲載された『婦人倶楽部』昭和30年11月号の広告。当時の雑誌全般に言えることだが、付録の充実ぶりが実にあっぱれ。おそらく書店に並ぶときは、膨れ上がった本誌がヒモで十文字にしばられ、間に挟まれた付録が飛び出ないようになっていたと思われる。

 第1別冊(付録)は「冬の婦人服・こども服」。<今年の冬を暖かく、楽しく過ごすための実用おしゃれです!>とあるからスタイル集か。婦人服とこども服だけで、紳士服はないけど。

 第2別冊(付録)は「ママさんの手で作る 可愛いセーター」。<赤ちゃんから13歳までの男女児用・・・>。もちろん、パパさんのセーターはない。

 気になる特別挟込(付録)は「ドレメ式 文化式 原型型紙」。折り畳んだ型紙が紙袋に入れられ、ページに挟み込まれているヤツ。子どもの頃、目にした中高年も多いと思う。

 型紙は、いわば洋服の基本設計図。ドレメ式(ドレスメーカー学院)はバスト、背丈、背幅、背肩幅、胸幅、乳頭間などの寸法を測る必要があるが、文化式(文化服装学院)はバスト、ウエスト、背丈の3寸法だけで原型を描くらしい。

 当時とくらべて日本人の体型は大型化しているので、旧来の型紙では間に合わなくなり、ドレメ式はドレメ式原型U(平成8年)、ドレメ式新原型(同21年)と変化を遂げ、文化式は新型原型(同12年)に切り替わっている。いずれにしても、フツーの中高年男子には無縁の話なんだけどね。

画像:朝日新聞/昭和31年10月28日

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2015年10月09日

昭和乙ニュース(43)ご安心下さい 昭和30年

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「この度のドライミルク不祥事」とは、徳島工場(徳島県)製造の缶入り粉ミルク<森永ドライミルク>を飲んだ乳幼児1万2344人がヒ素中毒になり、130人が中毒死してしまった『森永ヒ素ミルク事件』のことを言う。昭和30年6月頃から、西日本を中心に広がった。

 なぜヒ素が混入したか・・・凝固を防ぎ溶解度を高めるための安定剤として使用した第二燐酸ソーダに、多量のヒ素が含まれていたからだ。要するに、安価だが純度の低い工業用を使ったのが原因。

 そこで、ドライミルク離れを心配した日本乳製品協会と日本乳製品技術協会が、そろって「御安心下さい」の広告を新聞に掲載したのである。一刻も早く沈静化するように願って出された広告ではあるが、今どきの視点で見てみると、実に不遜で高飛車な文言が並んでいるから驚く。

 まずタイトルの「御安心下さい」が不適当。事件発生から3か月ほどしか経っておらず、原因も定かではなかった段階で「御安心・・・」はないと思う。さらに現在市販中の製品には「砒素は元より他の有害物は全く無いことを認めます」と高らかに宣言。「厚生省に於かれても之を確認して居られます」だと。

 さらに「何と申しましても育児には粉乳が最も好適」だから「何卒御安心の上従来通り御愛用下さい」というのは、「どっちみち飲ませにゃならんのだから、四の五の言わずに飲ませろ」と言っているようなものだ。失礼しちゃう。

 で、『森永ヒ素ミルク事件』はどうなったか。事件発覚後、多数の犠牲者が出たことがわかっていたのに、国は森永側に立って収束を図った。怒った被害者が訴訟を起こすものの、一審では森永側が全員無罪。検察側が上訴し、最終的に森永側が原因をミルク中のヒ素化合物と認めたのは、昭和45年のこと。事件発生から15年も経ってからのことである。

 現在も脳性麻痺・知的障害・てんかん・脳波異常・精神疾患等の重複障害の後遺症に苦しんでいる人が約730人(2014年)もいるから、森永の責任は重大。後年、雪印乳業が事件を起こしたとき、マスコミの取材に追われた社長がエレベーターに逃げ込みながら「私だって寝てないんだよ」と言い放ったが、どうして乳製品を扱う会社の上層部って傲慢なんだろ。実に不思議。

画像:朝日新聞/昭和30年9月18日

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