2016年03月01日

昭和乙ニュース(110)損害を何とかしてくれ 昭和26年

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 進駐軍による施設の接収は、占領当初、正式な要求書によるものではなく、現場ごとに勝手に行なわれていたが、9月に入ってからは連合国軍最高司令官が調達要求書(JPNR)を出すようになった。子分は手ぇ出すんじゃねぇ、というわけだ。

 そして昭和26年9月8日、サンフランシスコ講和条約調印。発効は翌27年4月28日だが、ともかく進駐軍の占領は終了し、日本は名実ともに独立することになる。となると、接収されていた不動産は調達の根拠を失い、返還話が話題になってくる。

 でも、たんに返還されるだけでは納得のいかないのが業者。昭和26年9月19日付朝日新聞に掲載された「損害を何とかしてくれ」という記事は、そのあたりのゴタゴタをまとめたものだ。

 つまり「特別調達庁」に対し、返還後は「接収期間中の営業上の無形の損害を補償してくれ」という要求が続出し、同庁不動産補償課に集まっているだけでも「請求補償額は総計五十億円余」になる・・・どうすんべという話。

 たとえば写真の「アーニー・パイル劇場(元東宝劇場)」の場合、請求補償額は「一億一千万円」也。小学校教員の初任給が5050円の時代だから、その額は天文学的。接収不動産に対しては「すべて毎月賃貸料が払われて」いるものの、接収されている期間中、「もし営業していれば得られたという利益に対する補償」だ。もちろん「法的根拠がない」。

 特別調達庁にとって、業者の言い分どおり「全接収期間をいまの時価で通算したら膨大なものになる」。予算は限られているから、「元通りの店開きするまでの開設準備資金にあてる程度のものになる」のではないのかと答えるのが精いっぱい。

 それとは逆に、接収された焼ビルが改装されて返還される「ホクホク組」から、「改装費に相当する利得金」をとりたいのが同庁。返還の日が来れば「さらに表面化」するだろうと結んでいる。

画像:朝日新聞/昭和26年9月19日
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2016年03月03日

昭和乙ニュース(111)軸ライン 昭和33年

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 昭和31年、経済白書『日本経済の成長と近代化』の結びは「もはや戦後ではない」。その年の流行語になった。

 ファッション界も、もはや戦後でなく、もんぺアッパッパよサヨウナラ、最新モードよコンニチハ。ただし世間でもてはやされたのはクリスチャン・ディオール。「チューリップ・ライン」に「Hライン」、はたまた「Aライン」・・・胴長短足日本人に似合うか似合わないかは別にして、次々にラインなるものを発表し続けたパリのファッションデザイナーだ。

 それじゃイカンと立ち上がったのがアド・センター(ADセンター)。昭和32年、日本織物出版社が改名して設立したデザイン会社だ。きっかけは倒産なんだけど。広告に記載されている「ADセンター・ファッショングループ」はADセンターのデザイナー集団。

「パリのオートクチュリエなどなんぼのもんじゃ、日本人の体形を知り尽くした日本のデザイナーにお任せ!」ってな感じで、昭和32年に「ハンター・ライン」を発表。『若い女性』(昭和32年9月号)に「狩人、ドライ、皮、茶、敏捷、野性的、自由、アウトサイダー、シックな若さ」などをイメージしたとあるが、要素が多すぎてイメージ出来ないけど。

 続く昭和33年に発表したのが、広告にある「軸ライン」。ディオールの「ライン」を引きずっているのが寂しいが、以降も「サイド・ライン」「キューピッド・ライン」など、年2回のペースで発表したのだが、同35年に終了してしまった。

 ところで、広告のコピーに「ハイティーンの魅力をデザインしたロケティッシュモード」とあるが、「ロケティッシュモード」がわからぬ。カッコ良く横文字にしたつもりなのだろうが、このあたりの勘違いが胡散臭さを醸し出しているのだと思う。今も昔も変わらない。

画像:朝日新聞夕/昭和33年3月12日

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2016年03月05日

昭和乙ニュース(112)仁左衛門一家殺さる 昭和21年

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 昭和21年3月16日、歌舞伎役者十二代片岡仁左衛門一家5人が自宅で殺害された。

 殺されたのは「仁左衞門丈(六五)」、妻の「登志子さん−元日活女優小町とし子−(二六)」、三男の「三カちゃん(二才)」、ばあやの「榊田はるさん(六九)」、子守の「岸本まき子さん(一二)」。

 いずれも「薪割樣のもので顏、頭などを滅多打にされ慘殺」。発見したのは、同日午前11時ごろに片岡家を訪れた「登志子さんの実母」。すぐに「原宿署に屆出た」。

 捜査の結果、犯行時間は「十五日深夜」。「戸締りのない裏の四疊半から侵入」した犯人は、5人を惨殺したあと「物品を物色」、「二日前に引出した現金六百円」も盗んだらしい。大卒初任給が400円の頃だから、当時の600円は今どきの24万円ほど。

 さらに捜査を続けると、「もと同居人飯田利明(二〇)」が行方不明であることが判明。警察は「怨恨による同人の仕業」を疑うことになる。幸いなことに、次女の「照江さん(五才)」は「神田の祖母宅へ遊びに行つてゐたゝめに難を免れた」。

 ・・・という事件だが、結局、飯田は指名手配され、3月30日に逃亡先の宮城県川渡温泉で逮捕された。調べによると、飯田は仁左衛門宅に住み込みで働いていた座付見習作家。殺害された子守の岸本まき子さん(12)は飯田の妹だった。

 犯行の動機は、登志子夫人に配給米を搾取され、わずかな量しか与えられていなかったことや、それを見かねた近所の老人からもらった食糧をも取り上げられていたこと。さらに仁左衛門から、座付作家として将来性がないと罵倒されていたこと・・・などに対する怨恨だったらしい。だったら妹まで殺さなくてもよさそうなものだが。

 当時、青年一人に対する主食の配給は、かならずしも米とは限らず、芋類や大豆などが代用される場合もあったが、1日当たり2合1勺(315g)と決まっていた。調書には、飯田は1日2食、米1合3勺(195g)しか食べさせてもらえなかったとある。ちなみに盗んだ現金600円は、ヤミ米を5升(7.5kg)買うと消えてしまう金額だった。

 翌22年10月22日、無期懲役の判決。

画像:朝日新聞/昭和21年3月17日

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2016年03月07日

昭和乙ニュース(113)日給者と祝日 昭和34年

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 皇太子明仁親王の結婚の儀が行なわれた昭和34年4月10日は、本来は休日ではなかったのだが、同年3月17日に「皇太子明仁親王の結婚の儀の行われる日を休日とする法律」が公布、施行されたため、国民の祝日扱いとなった。

 それに対し、常に弱者の視点でモノを考える朝日新聞は、コラム<今日の問題 日給者と祝日>で苦言を呈している。

 苦言の中身は、国会や政府は「日給生活者や日雇労働者」のことを忘れちゃいませんか。「休日が一日ふえると、それだけ賃金が減る」。彼らが受ける「若干の打撃」をどうするんだ・・・というもの。

 日本には「百万人を越える日雇労働者」がいる。「雨が降れば仕事にアブレる」のと同様、「休日によって一日分の収入がなくなる」のは許せない。できれば使用者が「有給休日で賃金を支払う」よう、「日経連や商工会議所あたりは音頭をとるべき」だと提言・・・ご結婚は、雨降りと同じアクシデントというわけ。

 こういった問題が起きるのは、「”休日”に関する観念」が「政府はもちろん使用者、労働者とも」明確ではないからだ。その点、西ドイツは素晴らしい。「国民祝日には労働協約の規定の有無にかかわらず、必ず使用者は賃金を払う」ように法律で定めているのだ・・・ギルド制のあるドイツと、そうでない日本をくらべるのはどうかと思うけど。

 最後に、できれば「臨時雇や、日雇労働者の人達」が「他の国民と同じように明るい心で国民祝日を祝える」ように「方法を考える」べきだと結んでいる・・・弱者のココロ持ちを斟酌し、正論っぽく結論に導く常套手段ね。

 当時の祝日は、元日(1月1日)から勤労感謝の日(11月23日)まで、1年に8日。しかも土曜日は全日あるいは半ドン仕事。毎年、巡ってくる祝日ではなく、たった1日の特別な日に御託を並べるなど、朝日新聞はステキな新聞なのだ。

画像:朝日新聞/昭和34年3月30日

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2016年03月09日

昭和乙ニュース(114)メモリー付電子ソロバン 昭和44年

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 昭和44年5月に発売されたカシオの「メモリー付電子ソロバン」。パチパチはんの電子版だ。

「電卓(電子式卓上計算機)」がJISの事務機械用語に規定されるのは10年後の昭和54年だから、誰も奇妙なネーミングとは思わなかった。形状も、横長のソロバンを真似ていた。

 とはいっても、スマートなソロバンとくらべると「AS-A」は小太り風。330(W)× 130(D)× 100(H)mmの1.7kgだから、結構、場所ふさぎ。それでも前年(昭和43年)に出た「152型」は、290(W)× 350(D)× 135(H)mmで5.2kgもあったから、技術革新ぶりがすごい。

 ちなみに「152型」はIC(集積回路)採用第1号で、お代25万円。「AS-A」はLSI(大規模集積回路)採用でお代11万円。大卒初任給が3万円ほどの時代ではあるものの、ほぼ同じ機能で半額以下になったから、海外でも大評判。ベストセラー商品となった。

 気になる計算機能だが、今どきの100円ショップで売られている12桁電卓とくらべると、「CE」「%」「√」などのキーはなく、唯一、「12桁1組」のメモリ機能が付いているだけ。四則演算、連乗、べき計算、定数計算などが出来た。

 今どきと大きく異なるのは数字表示部分。液晶パネルではなく、ニキシー管(蛍光管)が12本並んでいた。おかげで消費電力6W、電源はAC90〜110Vオンリーだった。液晶パネルの登場は、4年後の昭和48年6月に発売される世界初の液晶電卓、シャープ液晶コンペット「EL-805」を待たねばならなかった。

画像:朝日新聞夕/昭和44年8月9日

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